台湾の空に飛ばした「世界平和」のランタン
なぜ塾のない九重の山奥から、台湾へ向かったのか
僕は家族みんなを
台湾に連れて行きました。
子供たちの経験のため……
なんて言ったら かっこいいけれど。
正直に言うと、
子供たちを塾に行かせられるような環境に
僕は住んでいません。
山の中すぎて。
そして
月に10万円も塾に払えるようなお金も
ありません。

自分たちの足で道を切り拓く「自立」という教育
一方で、僕も妻も
塾に行っていい大学に入って
いい仕事に就くだなんて
これっぽっちも望んでいません。
親の役割は
『子供を自立させること』
どうやって生きていけばいいのか
自分で考えて自分で道を作れる人に
なればいい。
そう考えています。

日本は今、
「みんなが同じでなければならない」という
見えない同調圧力に包まれています。
その息苦しさの中で、
本来あったはずの多様な生き方が、
どんどん見えなくなっている。
だから、自分の知らない文化の中で、
みんなが必死に
でも伸びやかに生きている姿を
子供たちに知ってもらいたかった。

そこから自分の住む世界を見つめ、
歩む道を決めてほしい。
そんな思いから、台湾行きを決めました。
人生は短く、はかない。だから今、家族と温もりを分かち合う
もう一つは、家族のつながりのため。
人生はあまりに短くて、はかない。
僕も40半ばに差し掛かり、
肉親の死や友人の死を経験しました。
大好きだった近所のおじさん、おばさん、
おじいちゃん、おばあちゃん……。
数えきれないほどの別れを経験してきました。
最後、
僕の中に残ったのは
「温かい思い出」でした。
あんなに喧嘩していても、
あんなに嫌で仕方がなかった人でも、
最後は不思議と、
一瞬だったかもしれないけれど、
温かい気持ちをもらったことを、
思い出してしまいます。
僕はこれまで、自分の暮らしと
地域での事業を成り立たせるのに、
本当に、本当に精一杯でした。
毎日が忙しすぎて、
心をすり減らすようにして
生きてきました。
家族にも、
嫌な思いをたくさんさせたと思います。
だから、
この時間だけは家族のために使いたい。
子供たちの心の中に
「温かいもの」を作ってあげたい。
そう思って、旅に出かけたのです。

そこで出会ったのは、
家族の笑顔はもちろん、
意外なものでした。
子供たちの笑顔にうつった、
少年時代の僕の姿と、
あの頃の、僕の笑顔でした。
子供たちの笑顔に写った、あの日失った「少年の僕」
十份の空へ、迷いなく書かれた四文字
台湾の十份で楽しみにしていたのは
家族みんなで
ランタンに願い事を書いて
空にあげることでした。

十份は神様のすみかに最も近い町と
信じられており、
願い事をランタンに書いてとばすと
叶うと言われています。
8色の紙が貼ってある
ランタンに願い事を書いていきます。
「友達がたくさんできますように」
「スイッチ2がほしい」
「英語がマスターできますように」
「家族みんなが健康でありますように」
最後にあいた白色の紙の部分。
子供たちに「何を書きたい?」と聞くと
『世界平和!』
「うん、それがいいっ!!」と
迷いなく答えました。

世界で一番美しいものに触れた、家族の笑顔
そのよどみない答えに
びっくりするとともに
世界で1番美しいものに
ふれたような
感動につつまれました。
世界平和と書いたランタンは
小さな灯火と共に
夕焼けの空にすいこまれていきました。
「この瞬間のために頑張ってきた」仮面の下の涙
その後撮った写真には
家族全員あふれるような笑顔と
思いもしなかった
僕の笑顔が写っていました。
「ああ、この瞬間をむかえるために
頑張ってきたんだ」
深い感動に心が包まれて
写真を見ていると
涙が止まらなくなりました。
24歳の置き手紙と、仮面を被り続けた20年
環境省での輝きと、その後に待っていた「月15万円」の絶望
僕は自分の生まれ故郷である
ふるさと「相模原」を捨てました。
ある日突然置き手紙をして
家を出たまま
戻ることがありませんでした。
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それからというもの、
両親の面倒は自分で見ると決意し
行き着いたこの九重の地で
暮らしていくことを
決めました。
最初に就職した
国立公園くじゅう連山での
環境省のアクティブレンジャーの仕事は
初めての社会人でとても楽しくて
毎日が新鮮な発見と驚きの連続でした。
「環境教育」に出会い、
地域の自然を愛する仲間たちと
地域の文化と自然を学べる
教材やプログラムを作ることに
一生懸命でした。

ただ当時、任期が4年でした。
毎日必死に考えていました。
「任期が終わったらどこにいくんだろう?」
「一生懸命仕事をしていても
しょせん地方の臨時職員だから
次につながらないんじゃないか。」
冬のくじゅう連山の
灰色の登山道を
歩いていると
なぜか両親の顔が思い浮かび
冷たい風をほほに感じながら
涙が流れていました。

3年後。
たまたま当時のレンジャーの方の
尽力のおかげで
長者原ビジターセンターに
就職することができました。
「首の皮がなんとかつながった!」という
安堵感はあったものの、
ここから本当に苦しい生活が始まります。
汚物まみれのトイレ掃除と、手のひらを返した大人社会
長者原ビジターセンターの仕事は
給料は手取り月15万円、ボーナスなし。
そんな生活が数年続きました。
当時は結婚したばかりで
子供もできました。
なんとか学芸員として
自分の専門を持って
頑張らないとと思い、
仕事が休みだった
週に2日は社会人枠で
別府大学大学院で
環境歴史学の勉強を続けました。

地域の関係者からは
「こんなところで働くんじゃない。
ちゃんとしたところに就職しろ!」とか
「ここで働く人は
お金を目的に働くんじゃない!
なんぼでもいいから
勤めさせてください、
九重の自然の中で
働かせてください
と言う人が働くところだ!」と
きびしく言われ続け
その度に
「苦しくても誰にも助けてもらえないんだ。
これからどうやって生活しよう。」
と絶望の淵に
投げ込まれたような
気持ちになりました。
家賃、食費、携帯、生活必需品の車代、
独身時代ならなんとかなっていたものの
15万のお金は家族ができると
すぐに底をつくようになりました。
300円のスリッパひとつ買うのも
ためらうような暮らしでした。

僕は生活が苦しかったので
夜は近くの旅館で
家庭教師のアルバイトを
させてもらいました。
あの時に旅館のまかないで
食べさせてくれた
豪華な夕食の数々。
その温もりと味を
今でも鮮明に覚えています。
また環境省時代に
とてもよくしてくださった
ビジターセンターに出資をしている
地域事業者の方から
手のひらを返したように
「お前たちは俺たちの会費で
雇ってやってるんだ!
お客さんが自然とふれあうような
余計なことはしなくていいから
公園のトイレ掃除と
草刈りだけしてろ!!!」と
大声で怒鳴られ続けました。
それに同調するように
他の事業者さんからもヒソヒソと
悪口を言うのが聞こえました。
当時の公衆トイレは
全て和式トイレで
掃除しても掃除しても
すぐに汚物まみれに。
土日祝日や連休は
1回2時間のトイレ清掃を1日3回以上
おこなうこともザラにありました。

家に帰ると髪の毛も服も
汚物の匂いでいっぱいでした。
「何のために仕事をしているんだろう」
このとき僕は
みんなが環境省時代に
良くしてくれたのは
僕という一人の人間を
認めてくれたんじゃなくて
「環境省」という仮面があって
自分の事業や申請を通すために
仲良くしてくださってたんだという
大人社会の
当たり前のことに
気づきました。
九重に来て最初1年間に
出会った風景や
美しい自然の中での暮らし。
土間を通り抜ける風。
裏庭から流れるわき水の音。
魚が焼けるにおい。

ありのままの
自分を受け止めてくれた
九重と人が大好きで
ここで生きていくことを決めたのに
現実は本当にきびしくて
夜な夜な
うちひしがれていました。
それからというもの
ありのままの自分を
さらけだすことを
封印してきたように思います。
さらけだす方法すら
いつしか忘れてしまいました。
僕は仮面をつけることにしました。
「理屈」というナイフで、自分と周りを傷つけていた日々
とにかく仕事で成果をあげ
事業を成り立たせないと
みんなに認めてもらえないし
生活も成り立たない。
結婚もして子供もできた。
両親も迎え入れなければならない。
1日でも早く前に進み
1日でも事業を成長させなければと
論理と理論でガチガチに。
そんな気持ちが人一倍強かったから、
当時一緒に働いていた職員のみんなと
しょっちゅうぶつかっていました。
「ビジターセンター職員の本質は
自分からたくさん自然を楽しんで
それをお客さんに
伝えることじゃないか!」と
言われた言葉は
今も僕の心の中に残っています。

働いているみんなだって
こんなに大変な職場に来てくれたのに
それを代表の自分が受け入れられず
本質的な楽しみさえも許されないような
環境にしてしまって
ナイフのような言葉で
傷つけてしまった人たちの顔を
1人1人思い出して
今では深く反省しています。
その後事業は
環境省のレンジャーの方の
大きな協力もあって
なんとかまわるようになっていきました。
学業の方も
社会人をしながら
大学院の勉強をなんとか続け
文化財学の修士課程を修了しました。
実家の解体と母の死、そして「ふるさと」の再発
自分の手で失ってしまった、東京都心のベッドタウン
ビジターセンターの事業は
軌道に乗り出して
環境省からの委託金も増え
給料も上げられ
両親を無事に呼び寄せることが
できました。
子供も3人できて
文字通り賑やかな毎日になりました。
ただし相模原の実家を空き家のままに
しておくわけにはいきません。
実家は東京都心のベッドタウンとはいえ
固定資産税から上下水道、電気代など
田舎では考えられないくらいの
出費がありました。
両親は2人で話し合いをし
実家をとりこわし
売却することに決めました。
家の片付けは両親が行いました。
とり壊す前に、僕一人で誰もいない
実家に帰りました。

中は数年人が住んでいないので
動物が入って荒れていました。
それでも
みんなで食卓をかこんだ
油かすのにおいがするプレハブの台所は
そのままでした。

僕の成長記録を書いた柱の傷も
そのままでした。

母とはげしい言い争いをした
2階の部屋もそのままでした。

小さい頃から
僕と姉、両親の時間を
きざんだ鳩時計も
そのままでした。

何もかも当時の時間が止まったまま
そこにありました。
変わってしまったのは僕でした。
僕のせいでこの家はなくなるんだ。
そう思うと
胸が締めつけられるような
気持ちになりました。
母に手を引かれて行った
団地の前の小さな公園のうんていも。

毎日小学校に通ったあの道も。
毎日学校帰りに大好きな友達みんなで
ドッチボールをしたあの公園も。

友達と深夜に自転車で
初日の出を見に行ったあの場所も。
全て自分の手で失ってしまうんだ。
あんなに嫌だった、
あんなにどうでもいいと思っていた
ふるさとなのに
そこで僕が見たふるさとは
僕が思っていた
無機質な灰色のふるさとではなく
美しく色鮮やかなふるさとでした。
実家を出る最後の日は
どんよりとした曇り空でした。
おえつをあげながら家の四隅に塩をもり
お酒をあげました。

「本当にごめんね。
そして本当にありがとう。」
伊豆のおばあちゃんちが教えてくれた、世界の豊かさ
大好きだった母の実家だった
伊豆の親類の家にも
詫びを入れに行きました。
僕の相模原の実家は
伊豆のおじいちゃんが苦労して
手に入れ
自ら大工として
家を建ててくれたものでした。
伊豆は僕の第二の心のふるさとでした。
「よく来たね〜!」
満面の笑みで迎えてくれた
亡きばあちゃんの顔。

春休み、ゴールデンウィーク、夏休み、冬休みは
伊豆の田舎で過ごしました。
国道16号線沿いの
排気ガスまみれの実家を離れ
海が見える美しい山の中へ。

そこで僕は
小さな漁港で釣りをして泳いだり
いとこと小川に行って
サワガニとたわむれました。
山ではクワガタとりに夢中に。
お盆の時期は夕方になると
いとこに連れられて
各家をまわって、
「じんじとばんばとこの日の灯りにこらわっしぇ」
と歌いながら
庭で杉の葉を燃やして盆火をたきました。
夜はアジのヌタでご飯を食べて
神社に盆踊りに。

盆踊りの帰り道では
満点の星空をながめて
心は寝るまでときめき続けていました。
伊豆は人間だけじゃない
世界の豊かさを僕に教えてくれました。
だから大好きだった
おじいちゃんやおばあちゃん、
おじさんが眠るお墓に行って
ごめんなさいを伝えに行きました。

「僕のせいで相模原の家はなくなります。
申し訳ありません。
でも僕は伊豆が大好きです。
実家はなくなるけど
また遊びにきていいですか?」と
お墓の前でおばさんに
ふるえるような声でたずねると
「いつでも待っているよ。おいで。」と
優しい目で答えてくれました。
その言葉を聞いて
深い安堵感につつまれました。
相模原の実家や
伊豆が作ってくれた少年時代は
僕の心のよりどころだったんだと
はじめて感じました。
相模原の実家を手放した後に
GoogleMapを見ると
かっこいい青色の
新築のデザイン戸建てが建っていて
もう誰かがそこに住んでいるようでした。
僕は自分で、自分の実家を
手放しました。
「こんな素敵な家をありがとう」母の最期の言葉と救い
生活の基盤がなんとかできて
両親はなんとか呼び寄せることは
できたものの
それからすぐ母は九重で
間質性肺炎を発症してしまいました。
最期まで「伊豆の海が見たい」と
言っていました。
症状がひどく悪化する直前に
千葉にいる姉家族を呼びよせて
最後の大旅行をしました。
父母の金婚式の記念に。
伊豆の海ではないけど
別府と佐伯の海を見せました。
おいしい魚を家族みんなで食べて
笑顔で写真を撮りました。

それから1年後
母が家から
救急搬送される最期、
息絶え絶えに
こんな言葉を残してくれました。
「こんなに、すてきな家で、
暮らさせてくれて、ありがとう」と。

本心だったのかはわかりません。
そんなことはどうでもよくて
僕の努力を最期に受けとめてくれたんだと
心の奥深くで
じんわりと感じることができました。
中年の危機。絶望の淵から這い上がるための「希望の種」
理性と野性の間で、激しく揺れ動く感情の正体
九重で見つけた「美しい暮らし」と
九重で受けた「冷たい風当たり」。
その溝を埋めるために
身を削る毎日で
いつしか心が乾いてしまいました。

でも
仮面の下でずっと
僕の少年時代の心は
泣き続けていたんだと思います。
それがときどき
僕の表に出てくるようになったきっかけが
実家の喪失と母の死でした。
少年時代の僕は
なんでもないふとした瞬間に
突然僕の中にやってきて
あばれるように感情を爆発させます。
急に涙が止まらなくなったり
急に怒り出したり
急に落ち込んだり
どうしようもなく
1人になりたくなる一方で
弱いありのままの自分を
誰かに受け止めてほしいと
本気で思ったり。
いつもとちがう様子に心配した妻は
僕をキイチゴつみに誘ってくれました。

喪失の悲しみは九重の自然の中で
ただその現象を
ありのままにとらえるように
なりました。
そして悲しみはそのままに
それが生きる力に変わっていきました。
でも理性と野性の間で
今まで感じたこともないふれ幅で
少年時代の僕が暴れまわり
感情がはげしく揺れ動くようになり
自分で止められなくなりました。
「中年の危機」です。
そんな僕が
心から笑っているのを
台湾の家族写真で発見しました。
そして家族みんなで
「世界平和」というランタンを
空にかかげたときの
子供の無垢な言葉と笑顔に
僕の少年時代が重なりました。
写真を見ていたら
絶望の淵から少しだけ
はいあがれそうな気がしました。
同時に
子供たちが大きくなった時に
僕と同じように
新たな絶望を作り出さないか。
美しい思い出は
絶望への片道切符にならないか。

彼らの純粋な気持ちを
いつか傷つけてしまうんじゃないか。
そんな変な不安も
同時に感じていたのでした。
社会が絶望を教える、ならば親は希望を教えよう
心は擦り切れながらも
今も希望を持ち続けて
走り続けています。
皮肉にも
その希望の源に気づかせてくれたのは
大切な人と実家とのわかれでした。
台湾での写真を見ていたら
少年時代の僕が
あふれるようにして出てきて
涙が止まらなくなりました。
でも今度は
理性と野性の間で
あふれ出てきた希望の記憶が
切れそうになっていた糸を
つなぎ止めています。
社会は教えなくても
絶望を教えてくれます。
厳しかったり、裏切られたり、惨めだったり
そんな体験をいくらでも
させてくれます。
でも希望を教えてくれたのは
社会ではなく
僕の両親と家族、親戚、友達、
そして九重の人と自然でした。
十份のランタンに
子供たちが書いた
「世界平和」。
もしかしたら僕は
どうしようもない
社会の防波堤になって
そんな希望の種を
子供たちの心に
贈れたのかもしれない。
そう思うと、
心が擦り切れるようにして
走ってきた日々に
深い意味を感じることができました。
社会が絶望を教えるのは
止めることができないけど、
誰かが希望の種を
まきつづけなかったら、
いつしかみんなの心は
かわいてしまいます。
そして
それに気づいていた一部の人は
日々孤独に闘っていることと思います。
だから僕は
ここで仮面を外すことにしました。
孤独なあなたに届けたくて。
【追伸】未来のわが子へ。絶望の底に「小さな灯火」を
あなたたちが生きてる時代は
いったいどんな時代でしょうか。
あなたたちが願った平和が
続く世の中でしょうか。
思い通りの人生を
歩んでいるでしょうか。
もしかしたら僕と同じように
絶望の淵を歩いているかもしれないね。
でもそんな時には
あの時みんなであげたランタンを
思い出してください。
世界がどうあろうと
あの瞬間に生まれた
あの言葉と思い出、
そして空に向かって上がった
小さな灯火は
決してあなたたちを裏切りません。
もしかしたらあの時の体験が
絶望の深さを
教えてしまったのかもしれないとも
心配しているよ。
でもそれは希望の大きさの裏返しだよ。
希望が大きければ大きいほど
絶望の深さは深くなる。
だけど希望は絶望の底になる。
暗闇に落ちてしまうことなんかない。
落ちた時は少年少女時代の
あの美しい思い出が
あなたたちを支えることを
約束するよ。
親ができることは
あなたたちが一人で歩いて行くこと。
でも一人ぼっちで歩くんじゃない。
心の底に温かい小さな灯火を
持って行くんだ。
あなたならきっと大丈夫。
さあ、一緒にまた歩き出そうよ。
今の僕もまだ毎日、
迷いながら歩いているよ。
あとがき
ここまで読んでくださって、
ありがとうございます。
……読み返してみると、
なんだかものすごく
「立派なお父さん」
みたいに書いてしまいました。
妻は読んだら
「はい??」というと思います(笑)
正直に言うと、
これを書いている間、
泣きながら
「かっこよすぎないか?」と、
恥ずかしくなっては消し、
消しては書き直していました。
本当の僕は、
全然こんなに
澄み切った人間じゃありません。
子どもたちには
「自立だ!」なんて言いながら、
掃除をしない姿に
イライラして怒鳴りちらかすし、
仕事でトラブルがあれば、
「もう嫌だ、全部やめたい」と
ひとりで引きこもってしまうことも
本当によくあります。
でも
そんな「情けない40代の自分」に
疲れ果てたときに
ふとあの少年時代や伊豆の海、
九重の自然の中での
穏やかな日々を思い出すんです。
「ああ、あの瞬間はたしかに本物だったな。
あの瞬間をずっと守りたいな」と。
この文章は、
誰かに向けた立派なメッセージというより、
中年の危機まっただなかの僕自身と
子供たちに向けた
すごく私的なメッセージと物語です。
もし、この記事を読んでいるあなたの心が、
今、何かの重圧や喪失感で、
ヒリヒリと痛んでいるのなら。
「自分は一人ぼっちじゃないか」と、
暗闇を歩いているのなら。
「こんなにかっこつけて
色々書いているこいつも
実は裏では
情けなくもがいているんだな」と、
笑ってやってください。
その笑いが、あなたの夜道を照らす、
ほんの小さなランタンになれば。
書き手として
それ以上に嬉しいことはありません。
同じ中年同士、
痛みもつらさも抱えながら
笑い合っていこうではありませんか。
さあ、僕もまた
いつもの九重という場で
いつもの仲間たちと。
自分の、
そしてみんなの「ふるさと」を
探し続けようと思います。
ありがとうございました。
これを書いている僕は
こんなことをやっています!
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